Meieki stories of Fucchi #5
石炭事情悪化、切符発売制限、スキー車内持ち込み禁止(31)
石炭は黒ダイヤと呼ばれ、唯一のエネルギー源として、産業の米として、もてはやされた。 国鉄は勿論、火力発電、工場の動力源、家庭の暖房にと需要は拡大一途であった。
21年、22年12月に入ると石炭の需給が一段と厳しくなり、遂に一時的に列車削減に伴い、切符発売制限、スキー車内持ち込み禁止などの措置がとられた。
22年1月から4月まで、一時急行列車の全廃に追い込まれた。
一方では長年の夢だった東海道線の全線電化は戦後間もなく着工され、24年9月には浜松まで完成し、同じ職場で同級生のJ君は磐田変電所(交流を直流に変換する変電所)へ転勤となり、 後日回転変流機なる代物を見る為変電所を訪れて、目の前を走るあこがれの電気機関車をみて、いよいよSLから電化の時代だなと痛感し、早く名古屋まで来るといいなとJ君と語り合った。
国鉄は塩も作っていた。急行列車徐々に復活(32)
石炭事情悪化、急行列車削減に加え、インフレは職員の生活を直撃し始め、あらゆる生活物資が 不足した。
そのために各職場で自給出来る事からと、サツマイモの栽培を(農地を借りて)垂井町で 始めましたが、頻繁に盗難に会い、交代で当直して夜間の監視に駆り出された。また塩を作るよう(職員に配給するため)指示があり、武豊港と四日市港の引き込み線に小型の有蓋貨車を1両配置して宿直室とし、その敷地内に20石入りの大きな醸造用の樽を2基据え付け海水を汲み上げ、24時間体制で取り組んだ。

3本の電極を立てて沸騰させ濃縮して別の桶に移し、製塩するという電気製塩の手法で素人作りの色の悪い塩でしたが、いくらかでも職員の生活のお役に立ったのではないだろうか。

暖かくなり、石炭事情も緩和され、急行列車も徐々に復活し始めたが、冬になればまた同じ事をくり返した。
その間もインフレはどんどん進行し、物価高とベースアップのいたちごっこが始まり、職員の生活は益々苦しくなっていった
猛烈インフレ、職員を直撃。上司が可哀想(33)
物価高とベースアップのいたちごっこは、ひどい時は毎月行われ、給料の差額を受け取る時は物価は遥かに高くなっていて追い付かず、必要最低限の生活が困難となった。
年輩の上司達は 本当に苦労を重ねていた。
端から見ていて、お気の毒としか言い様がなく可哀想だった。

一方私達独身者は、ベースアップの差額が入る度に趣味やスキー、登山などに使った。

何時の時代も親達は子供達の為に苦労をしなければならない。

-完-
賃金ベース半年で1.7倍(23年12月)、私鉄運賃7割5分値上げ(付録)
物価高とベースアップのいたちごっこについて。

1世帯当たり家計支払い 都市勤労者平均実収入 名古屋市市電 私の給与
昭和18年6月まで 10銭
昭和19年4月 月給42円
昭和21年4月 2125円 *500~1724円 30銭 250円
昭和22年3月 40銭
昭和22年6月 4684円 1950円 1円
昭和22年9月 2円
昭和23年5月 8780円 5342円 3円50銭
昭和23年8月 6円
昭和24年6月 11885円 8810円 8円
昭和25年 11980円 9224円

*印21年については詳しいデータがなく範囲を表示。
ご覧の通り22年から24年にかけての物価高は物凄く、都市のサラリーマン生活の実態がお判り頂けると思う。 国鉄職員とて全く同様だった。

注)文章は渕端さんの著作物です。(一部メイエキドットコムにより編集)
画像はメイエキドットコムおよび各著作者の著作物です。



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