Meieki stories of Fucchi #4
軍需工場の同級生が国鉄へ再就職(22)
軍人か軍需にあらずんば男にあらずの時代にひとり気にしていたが、終戦となり 敗戦国とはなったが何か肩の小さな重しが取れた様な気がした。
志願で予科練や各種の軍事学校へ入った者、軍需工場に就職した者がすべて失業、唯一つ今までと変りなく動いていた大きな職場国鉄に職を求めて大勢入って来た。

卒業と同時に入った僕達2人、1年半遅れの再就職合わせて5人となった。
そして職場に籍を置いて出征した職員の復帰などでまたたく間に大勢の職場になった。
普通の坂が登れない、空転ばかりのSL機関車(23)
昭和20年1月から勤務した第一配電室は前に名古屋機関区への機関車、客車入出庫線、及び 関西線、裏側には近鉄車庫、近鉄名古屋線、すぐ上には稲沢貨物線の鉄橋が上記の6、7本の線路を斜めに跨ぐ格好で掛けられ、貨物列車が通過する度にガタゴトと大きな音をたてて走っていた。
昼間は5分間隔位で機関車、電車、列車が絶えず通過しても気にならなかったが、上を走る貨物列車の音は深夜に通過する1本が、やかましくて目が覚めた。
そのうちに馴れてきたのか殆ど気にならなくなり、普通の仮眠がとれるようになった。

終戦間近な深夜、何時も気にならない貨物列車の機関車が鉄橋の手前の普通の坂で、 激しい空転をくり返しその音で目が覚めた。じっと耳をこらしていると静かになり、 どうしたのかなと更に様子を聞き耳していると、30分も経過しただろうか、力強い音を たてて登って来たなと、伺っていると又激しい空転を始めた。
二度目の後退をして 小一時間経ったただろうか。今度は通常通りにガタゴトと通過して行った。我が事のようにほっとした。

こんな現象が終戦後も時々起きていた。
察するに過重連結、炭質悪化、運転条件の未熟などの悪条件が重なったのではないだろうか。
念願の電気機関車と省線電車を見たさに上京(24)
撮影:千田宏喜氏

省線電車(イメージ)

空襲の心配も無くなり、国鉄の電気関係の職場にいて電気機関車と10両以上連結の省線電車はどうしても見たいものの一つだった。名古屋付近ではSLと客車のみで、私鉄がせいぜい3ないし4両位の電車を走らせてはいたが、スタイル、迫力,新鮮さなど魅力一杯だった。

20年10月頃になり休みも徐々に取れるようになり、念願の東京行きを決めた。
さて乗る列車は、名古屋午後10時頃発の夜行列車で、翌朝5時半頃東京駅に着く予定だった。
夜行で行って夜行で帰る予定なので、何も持ってゆく物が無い身軽ないでたちであった。

さすが国鉄、予定時刻通り東京駅に着いたが満員寿司詰めの7時間半、4人掛けのシートに話し合いで10人が体を押し付け合い座席に6人、床に2人、肘掛けに2人。(通路は別)
皆東京までなので腰だけは下ろすようにして、身動きも出来ないまま、とうとう一睡も出来なかった。
でも若いお姉さんと体を触れ合いながらの夜行の旅は満更でもなかった。
東京駅は廃墟、扉の無いトイレ。東京へ用を足しにいってきただけに(25)

赤レンガ東京駅

駅に着いて先ず驚いたのはあのレンガ作りの外国風の建物が、焼けただれた外壁を残して青天井であった。更にビックリ仰天したのは焼けて扉の無いトイレでしゃがんで用をしていたのを見てしまった。勿論男性だったが…。

名古屋駅内で勤務した者として、内部は勿論外観も殆ど無傷の名古屋駅に比べ、この惨状は文字どおり目も当てられなかった。第一東京駅が焼けた事も知らなかった。

トイレを我慢するも限度、扉の無いトイレも年が若すぎていやだ、折り返して品川駅まで行く事にして、そこで8時間近くの我慢を解いた。省線電車、電気機関車もゆっくり見たしどうしようかなと駅前に出てまたまた驚いた。
国道を東京駅方面へひっきりなしにひた走る連合軍の大型トラック(兵士を一杯乗せている)の行列が、轟音を立てながら目の前を無表情に通過する光景に息を呑んだ。

まだここでは戦争が終わっていないなと言う雰囲気であった。
見慣れた焼け跡には驚かなかったが、これはただ事ならぬ事態の予感がして早々と東京を離れ、乗り継ぎで名古屋へ戻った。

何のことはないはるばる東京へ用を足しにいっただけのことだった。
アメリカ軍名古屋に進駐、復員列車の運転開始、駅食堂街営業再開(26)
品川駅前で見た光景はやがて名古屋でも見られるようになった。

10月末にはアメリカ軍が進駐して来た。
市内では兵士がジープに乗って巡回する姿が目につくようになり、市民とのなごやかな交流も見られた。
間もなく市内の焼け残った主なビルはアメリカ軍に接収された。市公会堂(連合軍兵士専用劇場)、広小路角の生命保険ビル(第5空軍司令部)、滝兵ビルなどから、やがて専用列車運転に伴い名古屋駅内の貴賓室(RTO,進駐軍待合室)、1、2等待合室、会議室など、そしてアメリカ軍人家族専用のマイホームも市内の中心地(焼け跡)に作られ (現白川公園)芝生付きの広いアメリカ風のしょうしゃな建物は市民の羨望の的であった。

一方で内地の軍人はそれぞれの汽車で故郷へ帰ったが、外地へ派遣された人達は連合軍が指定した港へ集中して帰還するようになった。だが指定された港と最寄り駅の定期列車の輸送力が噛み合わず、20年12月に復員臨時列車が定期的に運行される事になった。
すすけた客車は窓ガラスは破れ放題、風呂敷をガラスの代わりにひらひらさせながら、デッキにぶら下がる者、機関車にへばり着く者、連結の間に跨ぐ者、屋根に乗ってトンネルでやられた人の噂、それでも国民は愚痴もいわず、国鉄を必死に利用しなければならなかった。

この当時の不正乗車率は本当に少なかったといわれる。
21年1月末には名古屋駅食堂街が営業再開された。意外に早い再開であった。
メニューはすいとん、雑炊、などと旅行者用に割り当てられた米にイモ、豆を混ぜた ご飯を行列して食べたが、1日の割り当て分を売り切ると開店休業の状態であった。
お召し列車に関与して恩賜のタバコを戴く、この時の大阪鉄道局長、後の総理佐藤栄作氏(27)
撮影:宇野邦彦氏

蒸気機関車C57(イメージ)

終戦のご報告のため20年11月11日から15日にかけて天皇陛下は伊勢神宮と京都へ御出かけになった。
東京をお召し列車でお立ちになった陛下は名古屋で関西線に入られて、参宮線経由で伊勢に向われた。

当日勤務にあたり、職場にも朝から特別の緊張感がみなぎった。
責任区間(岡崎名古屋間)の信号電源の確保と言う通常は配電盤の監視をするだけの業務だが、それでも通過時間帯には上司もわざわざ出向いて配電盤の前に立ち、3人でお召し列車の無事通過を待った。

緊張の約2時間、名古屋駅で職場のすぐ前の関西線に入られて間もなく、ピカピカに磨かれたC57機関車に牽引された5両編成のお召し列車が、目の前を定刻通り通過して行った。
普段と何ら変りない勤務状態だったが、後日菊のご紋章入りのタバコを戴き、感激した。

佐藤栄作氏

終戦直後とて物資の充分でない時代に、このタバコを父親に渡し、おいしそうにゆっくり味わっている顔が今でも浮かんでくる。

途中亀山から大阪鉄道局管内となり、帰路彦根(東海道線)までの管内をご同行されたのが 大阪鉄道局長、佐藤栄作氏(後の総理大臣)だった。

連合軍専用列車運転始まる、冷房用電源設備線路脇に設置(28)
明けて21年になると進駐軍が全国的に配備されて、当然ながらその関連輸送業務は国鉄しかなかった。
そこで生まれたのが連合軍専用列車の誕生だ。
戦災を免れた優等車両をつなぎあわせて、白線を施し1等車なみに仕立てて、東京、大阪、博多 間を3往復定期的に運転されることになった。
また半年遅れてイギリス軍専用列車も走るようになり、ホテルとして利用されるために 車内には各種設備が備えられ、一部の冷房設備などには電源が不足し、主要駅に停車中、外部から車両に供給する電源設備を敷設することになった。

職場では、これに応じて名古屋駅ホーム線路脇に一定間隔で電源を立ち上げて、専用列車に対処することになった。
すすけた客車ばかりの東海道線に、カラーもスタイルも新しい車両の専用列車が目立つようになり、勝者と敗者の列車がこの1本の動脈で行き交うこととなった。

連合軍の高官クラスの往来もその都度、部内報で掲示され、特別の配慮をした。
買い出し列車の摘発、各地で盛ん(29)
「欲しがりません勝つまでは」

戦時中この言葉を信じて耐えて来た国民は敗戦のショックより、この先どうして食って行けばいいのか。そちらの方が大事だった。 檻から放たれた動物のように、開放感と空腹感が同時に襲いかかり、右往左往するばかりだった。
国の主食の配給制度は不十分で、都会と農村の格差は随分ひどく、妻の田舎(能登)では代用食など食べたことはなかったようだ。
当時の代議士の選挙公約は、米の1日3合配給実現だった。
道路も車もない時代で、遠隔地への人、物の移動は国鉄しかなかった。

深刻な食料不足は田舎から都会へお米や農産物を、都会から田舎へは農家の欲しがる物を運ぶだけで、生活は勿論ビジネスとして成り立つため、買い出しは日を追って激しくなり、 当局も取り締まりを強化して、田舎の駅や列車内の検問(お米を偽装した袋やケース、 網棚、座席下等)を行っていたが、遂に1列車丸ごと抜き打ちに停止させて、根こそぎ没収すると言う事が行われた。

田舎から都会へのルートである北陸線、中央線などの取り締まりは度々行われ、買い出しの人達の不安と悩みだった。中には国鉄職員も一斉検問にかかり、管内職員に注意を呼び掛けていた。
電力不足、石炭不足、食料不足に伴いインフレで生活困窮、 闇市横行(30)
中学生の頃、数ある希望の中で何時かは、白いご飯に真っ白い砂糖をまぶして白い富士山を 見たいと思った事があった。あれから約4年、夢は益々遠退くばかりだったが、一方では先輩たちが戦前の楽しいスキーや登山などの誘いをしてくれるようになり、個人も社会もようやく明るい方向へ歩み始めた。

工場も生産(民需品)を一斉に再開しはじめ、鍋、釜、衣類すべてが在庫ゼロからのスタートだった。
作れば片っ端から売れると言う今では想像もつかないものだった。しかも粗悪品が。
ところが万事思うようにならなかった。生産の原動力となる石炭と電力の需要と供給が大きく開き、ネックとなって、国民生活にも影響していた。
家庭では停電こそ少なくなったが、夕方になると電圧降下で電灯は薄暗く、不便な日々だった。停電用のバッテリーライトが飛ぶように売れていた。

JR名古屋駅西口(太閤通口)

こうして人、物の移動がすべて国鉄を通じて行われるようになれば、手近な駅の周辺で物物交換や市がはじまるのも自然だった。 名古屋駅裏(現西口)や岐阜駅前などの焼け跡で食料品や中古の衣料品などが戸板に並べられるようになり、やがて禁制品なども堂々と売られるようになり、長く闇市の悪名を付けられ、その後新幹線の開通の計画が出来て、徐々に姿を消して行った。
名古屋駅裏で欲しいものを探せば大抵のものは中古品ながらすべて売っていた。

先輩に誘われてスキーを始めようと思いまずスキー板を新品(ベニア板の張り合わせで間もなく折れた)でと思い、ストック共で月給の3倍、スキー靴(中古品)では10倍と言う高値で売られ、やむなく上記のバッテリーライトの工場へアルバイトに出て、手に入れたが、靴は軍隊が使用していた編上靴(この靴しか無かった)を使い、勇躍伊吹山へと出かけた。
このインフレとこれがもたらす石炭不足は国鉄の輸送に大きく影響をする事になった。


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