第一配電室は国鉄の重要施設の一つに数えられ、2メートルを越す土嚢の防火壁に 囲まれて、爆風や類焼には比較的強く防護されていたが、地上の低い建物は殆ど 直撃弾には手の施しようがなかった。
そこである日、先輩のMさんに「爆弾攻撃の場合、安全な場所に避難は出来ないか」と尋ねたら、「この職場は他の職場と違って東海道本線の信号機の電源を確保するのが任務で例え名古屋が猛爆を受けていても、豊橋から米原(最悪の場合の責任区間)までは 列車が何十本も走っていてそれらを勝手に停止したりは出来ない、あくまでも 送電線に事故が無い限り、電源を送り続けることがこの配電室の任務」と言われて、やはり爆弾の怖さを体験した以上、これから爆弾攻撃の無いよう祈るより他に道がなくなってしまった。
5月頃からは焼き尽くされた大都市から中小都市、軍需工場や重要施設へと目標が変わって来た様な感じがした。
愛知県と三重県の県境を流れる木曽川、長良川、揖斐川に架かる長大橋(関西線、近鉄線 国道1号線何れも1000メートル級)の橋梁が狙われるのも当然といえば当然だった。
現在の揖斐長良川橋梁
そして遂に近鉄線の揖斐、長良川鉄橋の東側から2、7番目の橋桁が直撃弾を受け落下した。
鉄材不足の折り、当分復旧の見込みはなかった。そこで考えられたのが、100メートルばかり北を走る国鉄関西線橋梁を借り、共同で使用することだった。
やがて橋の両端直前で関西線に乗り入れて完全復旧まで長期にわたり、共同使用となった。
終戦後も近鉄線,関西線でここを通るたびに見られた戦争の無残な爪痕だった