Meieki stories of Fucchi #3
東海道線の信号はそれでも死守せよ(17)
第一配電室は国鉄の重要施設の一つに数えられ、2メートルを越す土嚢の防火壁に 囲まれて、爆風や類焼には比較的強く防護されていたが、地上の低い建物は殆ど 直撃弾には手の施しようがなかった。

そこである日、先輩のMさんに「爆弾攻撃の場合、安全な場所に避難は出来ないか」と尋ねたら、「この職場は他の職場と違って東海道本線の信号機の電源を確保するのが任務で例え名古屋が猛爆を受けていても、豊橋から米原(最悪の場合の責任区間)までは 列車が何十本も走っていてそれらを勝手に停止したりは出来ない、あくまでも 送電線に事故が無い限り、電源を送り続けることがこの配電室の任務」と言われて、やはり爆弾の怖さを体験した以上、これから爆弾攻撃の無いよう祈るより他に道がなくなってしまった。
拝啓国鉄様、鉄橋を貸して下さい(18)
5月頃からは焼き尽くされた大都市から中小都市、軍需工場や重要施設へと目標が変わって来た様な感じがした。
愛知県と三重県の県境を流れる木曽川、長良川、揖斐川に架かる長大橋(関西線、近鉄線 国道1号線何れも1000メートル級)の橋梁が狙われるのも当然といえば当然だった。

撮影:ひろゆき氏

現在の揖斐長良川橋梁

そして遂に近鉄線の揖斐、長良川鉄橋の東側から2、7番目の橋桁が直撃弾を受け落下した。
鉄材不足の折り、当分復旧の見込みはなかった。そこで考えられたのが、100メートルばかり北を走る国鉄関西線橋梁を借り、共同で使用することだった。

やがて橋の両端直前で関西線に乗り入れて完全復旧まで長期にわたり、共同使用となった。
終戦後も近鉄線,関西線でここを通るたびに見られた戦争の無残な爪痕だった
8月15日も平常通り勤務(19)
重大報道があるという今日、勤務についたが備え付けのラジオは雑音ばかりでよく聞き取れなかった。
戦争が終わった旨の、天皇の放送であったらしいと聞かされた。

さてこれからどうするのか。

この重大な事実だけ知らされて、市民は厳重な報道管制のもとでは、噂ばかり伝わり不安の一日であった。
何よりもこれで爆弾が落ちてこないのだなと思うと、内心ほっとした。
紅蓮の炎のなか、B29が超低空飛行で次から次へ現れ、銀白色の胴体に青白い探照灯の光と 赤い炎を反射させながら頭上に見た、あの生き地獄の様な光景はもうこない。

一緒に中学へ通った同級生S君の可愛い妹の爆死。豊川海軍工廠。焼夷弾が背中に突き刺さったまま倒れていた女性。防空壕で無念の死を遂げた男性。避難先で3度も家を焼かれたHさん。

もうこんな悲しい事が二度と起きないことが何より嬉しかった。
遂にこの日は、上からの指示があるまで冷静に勤務を続けるようにとの連絡があったきり何事もなく終わった。
書類等は全部燃やせ(20)
8月15日は何事もなく過ぎたが翌日、上からの指令で一切の書類をすべて焼却するよう口頭で指図があった。
場所は旧名古屋駅の南側の空き地(名古屋鉄道局の正面玄関前)で既に書類が山のように集まり、回りから燃えていた。
私の職場からも、戦争や軍の作戦などと全く関係のない電力送電系統図とか 管内の駅舎の電灯電力の配電図面など貴重な記録書類や書物を指定の場所に運んだ。

なぜこんな物まで燃やさなければならないのか。不思議な感じがした。
書類の山は益々大きくなり隣の名鉄新名古屋駅も焼け落ちて、類焼の恐れも無いまま、連日燃え続けた。
平和な時代に向けて決意を新たにした(21)
悲惨な戦争が終わった。
よくよく考えてみれば大都市に住みながら家族で大なり小なりの 被害を受けない人は殆どいない。
幸いなことに私の家族5人は体も家も全く無傷で、運の良さを感謝すると共にこれからの平和な時代に向けて決意を新たにした次第だ。


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