Meieki stories of Fucchi #2
資材不足ここに極まる(9)
皆さんが鉄道線路と言えば狭い場所では鉄筋コンクリート作りの高架線路か、広い場所では台形型の土手で作られた線路を思い出されると思う。

それが大都市名古屋のど真ん中に、大きくて長い角材を井桁に積み上げて隣の東海道本線(鉄筋コンクリート作りの高架橋)の高さにまでにしたものが現れた。
当時、緒戦で南方に進出した日本軍が、破壊された線路を早急に仮復旧するために使われた工法(当時写真で見た)とよく似ていた。
すぐ下を自転車で通った時など一見巨大な木材のビル、中身は隙間だらけの積み木と言う感じだった。
この年9月に開通した名古屋鉄道K.Kの新名古屋駅と神宮前間 (現在の名古屋本線)直通運転の線路の一部区間がこのようなもので、資材不足が如何に切実なものであったか思い知らされた。
君いっ!!非常時だって事、判っているだろう(10)
19年。秋も深まれば旅行者もふえる筈だが、サイパン陥落後、戦局は日に日に悪くなるばかりで、それこそ旅行どころではなかった。
旅行用の列車と言えば東京下関間の急行を含めて数本のみで、あとは軍用列車、短距離の普通列車ばかりだった。
ここ名古屋駅もその影響はもろに受け、広いコンコースの人通り(駅前と中村区方面をつなぐ道路の役目もあった)も夜間はグーンと減り、旅行客は待ち合い室を利用し、 ましてや一見用の無い立ち話や和やかな会話など交わす風景などは少なく、 あればすぐ目立つようになった。

ある晩、同僚のH君が、従姉妹が名古屋駅に立ち寄るから会いに行って来ると、作業服のままコンコースへ出て二人で立ち話しをしていると、憲兵が寄ってきて、若い男女の出会いを非難するかのように「君いっ!!非常時だって事、判っているだろう」と言われて早々と苦笑しながら戻って来た。
当時「非常時」と言う言葉は考えも行動もすべてこの一言で片付けられて、「はいっ」と答えて従うより仕方がなかった。

駅常駐(停車場司令部)の軍人は軍用列車の業務のみを扱うと思っていたら、噂には聞いていたが男女のデートにも干渉するようになって来た。
サイパン陥落、日本爆撃の基地確保(11)
19年7月サイパンは遂に陥落した。
密かにささやかれていた本土空襲が近いぞとの噂が現実のものとなり、12月に入るやB29による東京、大阪、名古屋と 矢継ぎ早やの空襲が始まった。
空襲に備え、駅の灯火管制、機関車の石炭投入時の光防止対策、信号機の円筒カバー取り付けなどなどが実施された。
名古屋ドーム

名古屋ドーム

名古屋だけでも12月13日、18日、22日と空襲があり、大曽根駅付近の三菱航空機、 電機の関連工場などが狙われた。 (現在の名古屋ドームはこの工場の跡地に建てられた)

中央線の大曽根駅もこの時被害を受けた。
大地震で踏んだり蹴ったり(12)
19年12月7日昼頃、この日は非番で寝ていた。
突如襲った大地震、飛び起きて隣の畑に出たが、両足でふんばっても立って居れなかった事を今でも覚えている。

職場が気になっても、連絡の取りようが無い。
非常呼び出しは(国鉄現場の責任者は官舎住まいで鉄道電話で非常呼び出し)私の職場では無かった。

この大地震でも、新聞は小さな記事を載せただけだった。
勿論被害状況など知るべくもなかったが、日が経つにつれて噂として被害の模様が伝わって来た。
東海道本線浜名湖付近で走行中の貨物列車が脱線転覆したとか、名古屋港付近で停車中の貨物列車が線路の傾きで横倒しになった、知多半島では航空機工場が倒壊したなどなど、この地震が東海地方の軍需品と兵員の輸送に大きく影響した事は戦後の報道で知らされた通りだった。

上からはB29、下からは大地震と正に踏んだり蹴ったりの年の暮れとなり、厳しい昭和20年の新年を迎えることとなった
遂に悲劇は起こった(13)
せめて新年ぐらい灯火管制や空襲警報のない、ゆっくり眠れる夜を過ごしたい。 それがささやかな市民の願望だったろう。

それもほんの束の間、1月3日には昼間の空襲、駅付近や西区菊井町付近などが焼夷弾攻撃を受けた。
こんな状態の中、国鉄職員は人手不足、睡眠不足と闘いながら職務を遂行した。 特に直接運転に携わる機関士達の過労は限界に達していたのではないかと思う。

名古屋駅構内で事故発生の連絡を受けて、早速管轄の設備に被害はないか、確認に現場へ行った。
そこは東海道本線上り線で、貨物列車が脱線転覆、内2両が隣の名鉄名古屋本線の地下進入口付近に転落していた。停車中の貨物列車に、後続のこの貨物列車が追突した事が判り、 過労による居眠りで停止信号を見誤って、進行したらしいと聞いた。

機関士、助士には大した怪我もなく、いずれ所属の上司からの処分を受けて済むものと思っていたら、翌日機関士は笹島貨物駅構内で自らの命を絶ってしまった。
噂によれば、軍の司令部に呼ばれ、作戦遂行に重大な支障を来したことを叱責されて、責任を感じたものらしい。
勿論新聞報道もなく関係者のみの知る悲しい結末だった。

明日の命判らぬ大空襲の連続。笹島貨物駅・名鉄新名古屋駅焼失(14)
20年1月13日深夜。またも三河を中心とする大地震発生。

三河地方で工場、住宅など大被害を受ける。さらに踏んだり蹴ったり、神も仏にも見放された。そんな感じがした。

名鉄百貨店

名鉄百貨店(駅ビル)

3月に入ると12日、19日、25日と連続夜間空襲、延べ1000機 の焼夷弾攻撃、これで市内の大半は消失、この間の国鉄の被害は笹島貨物駅の建物と 貨物の焼失、名古屋駅屋上の木造施設の全部、名古屋車掌区の建物など、 その他名鉄新名古屋駅が焼失した。
特に25日の夜間爆撃は勤務中でもあり、東区方面が集中的に被害を受け、一部爆弾攻撃があり、地響きと寒さで震えていたのを覚えている。焼夷弾は鉄筋の建物や 頑丈な防空壕であればある程度まで防げるが、爆弾ともなるとその破壊力は遥かに大きい。
1月から同じ所属の第一配電室(名古屋駅から南へ約500メートル)勤務になり、 駅地下に比べて爆撃の安全性では問題にならない。

一応鉄筋コンクリートの独立した建物だったが、爆弾の恐ろしさを遠くで見聞してからは、明日の命さえ判らぬ不安が 頭にこびりつくようになった。
焼夷弾から恐怖の爆弾へ(15)
19年秋以降終戦まで名古屋市内の空襲は大小合わせて20数回に及んだが、幸運にも渦中に巻き込まれたのは2、3回だけだった。3月19日の大空襲と終戦間近の艦載機に狙われて家に逃げ込んだことの2回。

ただ1回の19日の夜間空襲は、名古屋駅周辺と中村区が主に狙われたようだ。
この第一配電室(主として東海道本線の自動信号機に電気を送る高圧変電所)は後ろ側で住宅密集地から約100メートル位離れ、間に近鉄の車庫の 線路数本あり、前には名古屋機関区の出入庫線、関西線、笹島駅と上には稲沢貨物線が走る。

類焼には恵まれた環境だが、大火災による炎は旋風を巻き起こし、10センチ四方もあろうか 木材が火の玉となって横殴りに建物にぶつかった。建物は鉄筋コンクリートと窓が無いため幸い類焼は避けられたが、貨物線の土手の枯れ草が燃え上がり、前の笹島駅が燃え盛り炎の渦中で夜明けまで5時間、このまま火に囲まれてあの世へゆくのかなーと、不安と恐怖に耐えながら勤務を続けた。

火勢が衰え東の空が白み始めると、線路の空き地が見えはじめ、ああこれで助かったなと 安堵の胸を撫でおろしたのをいまでもはっきり覚えている。
この夜は、中部配電(現中部電力)からの受電は停止したが、隣の大垣配電室と 岡崎配電室から信号電源を貰い、東海道本線の信号機だけは停電することなく、 私達2人の責任は無事全うすることが出来た。

この大火災を無事に乗り切ったことで焼夷弾攻撃はさほど怖くはないと考えるようになった。
だが25日夜の大曽根方面の爆弾の恐ろしさを見てからは、終戦まで終始怖さを忘れることは出来なかった。
大曽根駅、恐怖の爆撃。駅全壊助役以下女子駅員33名爆死(16)



JR大曽根駅の慰霊碑
4月頃から焼夷弾攻撃は大都市から中都市へ、大都市や重要工場などは爆弾攻撃へと移行して行った。そして大型爆弾使用の噂が広がった。

港区船方の愛知航空機工場(6月9日)、大曽根の三菱航空機(4月7日)、豊川海軍工廠、千種の陸軍造兵廠などでは幾千人もの死者がでた。
空襲警報解除で職場に戻った途端、不意打ちの爆弾攻撃で沢山の死者がでた愛知航空機、 十代の女子勤労学徒が大勢勤務していて爆弾でやられた豊川海軍工廠、 そして大曽根駅の当日勤務の女子挺身隊員を含めて女子駅員33名死亡の悲しいニュース。

これらは昼間の空襲にも関らず、わが方の迎撃、抵抗などは全く見られず、なすがままと言った状態だった。わずかに高射砲のむなしい破裂の白煙が見られる程度だった。

すでに急行列車は東京下関間の1、2号を残し全部廃止となった。
5月には名古屋駅の食堂街も閉鎖され、国宝名古屋城、熱田駅も焼け落ちた。
この頃には市内の中心部は殆ど赤茶けた焼け野原となってしまった。


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